試合の練習

[#2字下げ]第二〇課 試合の練習[#「第二〇課 試合の練習」は大見出し]

 試合をあまりに試合第一と思い過ぎ、凝り過ぎる結果は、却って硬くなり思わぬ敗を取ることがあります。 また練習を練習だけの張合いのないものと心得、身を入れなければ、いくらやっても実《み》になりません。 名将の言葉に「戦争は演習の延長だ」というのがあります。 日本曹洞宗の開祖、道元禅師のこつ[#「こつ」に傍点]を教えられた言葉に「修業と効果とを二つのものに見てはいけない。修業しているそのことが効果であり、効果を得つつあるそのことが修業なのだ。なぜといえば人格の完成期は無限のものであり、いつが修業の終り、いつが効果の到着点ということがないからである。ひと座りひと座りの坐禅に刻々、全人格的の意義があるのだ」。(修証不二〔普勧《ふかん》坐禅儀〕) これによると、試合と練習とを区別しないばかりでなく、その場その場の一モーションに全競技的精神が籠らねばならないのであります。[#改ページ]

[#2字下げ]第二一課 橋は流れて水は流れず[#「第二一課 橋は流れて水は流れず」は大見出し]

 私たち鰹節をナイフで削るときには、鰹節を確《しか》と握り押えてナイフの方を動かして削ります。鰹節を橋とし、ナイフを水としますと、この場合は、この章の標題とは反対の「水は流れて橋は流れず」であります。それは当然《あたりまえ》のことです。 しかし、鰹節削りの鉋が出来て鰹節を削るときには、今度は鰹節の方を動かします。この場合には橋に譬えた鰹節の方を動かし、水に譬える鉋は動かさないのですから、「橋は流れて水は流れず」です。 物事は、時と場合で自由な考え方、自由な使い方をしなければならない。鰹節を削るのには必ず鰹節を握り押えて削るもの、すなわち「水は流れて橋は流れず」の一方ばかりの考え方に凝り固まっている人は、折角鰹節削りの鉋箱が出来ても、どこまでも鰹節の方を動かしてはならぬものとして、鉋箱を逆《さかさま》にして鰹節に宛てがうでしょう。それでは不便で仕方がありません。 しかし鰹節と鉋の関係の融通ぐらいは、簡単なことですから誰でも無意識に自然にやっていて、別に大した考えを費さなくとも済みます。しかしもっと重大な事件に出合うと人間というものは案外、習慣や型に捉われて、なかなか自由な考え方で適切な処置をつけかねます。そこで、そういう捉われた頭を変換さすために仏教の禅語で「橋は流れて水は流れず」というような奇妙な言葉を、わざと言い出して、ちょっと人の気を抜くのです。禅語にはかなり沢山、こういう奇妙な言葉があります。普通は「水は流れて橋は流れず」です。それを逆にしたのは、つまり、物事の相対性を言ったのです。私たちが日常向い合っている物事について、私たちが考えたり、行為したりする態度を自由にしなさいと訓《おし》えた言葉です。この自由な、融通の利く考え方をしなければ、太陽ばかり動いて地球の廻転運行なぞは思いも及ばなかったでしょう。[#改ページ]

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