不平の征服

[#2字下げ]第二三課 不平の征服[#「第二三課 不平の征服」は大見出し]

 人の一生を量ってみて、幸福《しあわせ》が多いか不幸《ふしあわせ》が多いかと言えば、正直のところ、普通の意味でいう不幸の方が多いと言う人が沢山あるに違いありません。中には「頼みもしないのにこんなみじめな世の中へ生んで貰って、もしこの世界の造物主《つくりぬし》とやらが見つかったら、一言恨みを言ってやる」などと言う人さえあります。 長い一生の収支決算まで待たなくても、現在、その日その日に不平は随分あることです。「これほど勉強しているのに、ちっとも認めてはくれない」「嫌な人達に頭を下げなくてはならない」「仕事がはかばかしく捗らない」「家庭が一向面白くない」「お金の入る片端から出て行って、これでは何のために働いているのだが[#「働いているのだが」はママ]理由《わけ》が判らない」「これほど愛しているのにまるで張合いがない」「何もしないのに人から恨まれる」「何故こう気に入らない顔に生れたろう」などと人々の不平が数え切れぬほど沢山あります。ですが、まだこれ以上ここに書くだけでさえ身を切られるような生活上の不幸、命に係るような絶望、それらがどのくらい多いか、日々の新聞の社会記事を見ればよく判ります。 今まで書き並べました不幸とはまた違ったこれほどはっきりしていないしかも慢性の不幸というのがあります。「なんだかいらいらする」「すっかりくさ[#「くさ」に傍点]った」「どれもこれも癪に触って」といった種類のものです。これは突発的な精神の打撃にはなりませんけれど、その代りに精神を虫食む度合が執拗《しつこ》く、だらだらと生活の張合いを失くしてしまいます。 これをどうしたらいいでしょうか。 もちろん、その原因は個人の上ばかりでなく、もっと広いところにあるというので識者たちが折角、研究努力しつつありますものの、それを待ってばかりおられません。そして、いつの世の中でも、世人全部満足だという世の中は歴史を見てもあった例《ためし》がないのですし、また、多数の人の共存する世の中は、みんなの連帯責任ですから、私たち個人個人が常に不平で愚痴ばかりこぼしていては決して良くはならないでしょう。また自分がいらいら[#「いらいら」に傍点]していたり、くさ[#「くさ」に傍点]っていたりしては、自分の病的な気分を他人にまで伝染《うつ》したりしてしまいます。ですから仏教では、こういうのを「自救不了《じくふりょう》」(自分一人だけでも始末がつかないこと)と言って大層嫌います。 ではまず第一に自分を救う、すなわち自分の不平、不安、失望、落胆、恨み、呪い、……などを征服するには、どうしたら良いでしょうか。それには、その拠《よ》って来《きた》る原因を突き止めねばなりません。仏教では、自分の内部、および外界に在る三毒(貪《とん》・瞋《しん》・痴《ち》)が、これらの不平、不安、失望、恨み等……の悩みを惹き起すことを見破っております。 貪というのは、人間の本能欲です。眼前のいろいろのものを、惜しみ、欲しがる我欲です。瞋というのは、いろいろのことに怒ることです。他人のことに口惜しがり、また決して許すまじと思い募る激情です。痴というのは馬鹿のことです。私たちの心の最奥には仏智見《ぶっちけん》と言って完全無欠の霊智があるのですが、その上を無明《ばか》な痴が遮ぎっているので、みすみす自分に持ち合せる霊智を働かせることが出来ないのです。 以上三毒を仏教の修業法によって転向浄化して行くのです。仏(宇宙の大生命のこと。自身内部にある人格完成の芽もこれを仏性と言う)を念じ、無心無我となって、心を澄ますとき、この三毒の善用法が判って来るのです。皆さんは、悲しいとき、口惜しいとき、欲しいとき、馬鹿らしいことをしたとき、澄み切った大空や、漫々たる海上を眺めたことがありませんか。悠久無限を想わせるようなものに面すると、私たちの欲望、怒り、知識経験の如何に小さく、つまらないものであるかを嘆じ、慎ましくなるか、あるいは、朗らかになって一大勇猛心の湧くものです。仏というのは、その大空や、大海はもちろん、天地間のありとあらゆるものを引っくるめての宇宙の大生命体を指して言うのです。そして、この宇宙の万物は「草木国土悉皆成仏《そうもくこくどしっかいじょうぶつ》」(涅槃経は専らこの思想を説き明す)と言って、生物も無生物も、みな満足の状態になれる可能性があり、事実、刻一刻とその境地を目指して進んでいるのです。 ですから、その仏を念じ、その仏の目的を覚り、その進行に身を委ねるときは、貪は転向浄化して一切の善を求めて進み、瞋は転向浄化して一切の罪悪を断ち、痴は払いのけられて仏智現れ、ここにおいて天地間の大生命と、自心内部の赤裸々な仏心(人格完成の芽)とが手を取り合うのであります。この法悦の刹那を、絶えず自分の心身上に喚起し続けるのが仏教の修業法で、かくして日々の生活の一挙手、一投足が、自分のためにもなり、他人《ひと》のためにもなる光明《ひかり》と歓喜《よろこび》にあふれたものになって来るのであります。この状態を、「自利、利他心平等」と言って、自分をよくし、他人をも同時に同じようによくするのですから、その人を菩薩として尊びます。もう、そこには不平不満や失望落胆などは決して起りません。[#改ページ]

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