奥さまは急な用事で

 おかしいのを堪えて私は、ひかえめにお化粧を直してあげながら理由《わけ》を訊いてみると、奥さまは急な用事で女中さんを伴れて親戚へ出かけられ、直ぐ帰られるはずが、用事が片付かぬかして時間になっても帰られません。その時間というのは、小さいお嬢さまが是非行きたいと望んでおられたお友達の家に催される子供のお茶の会に行く時間です。 時間が迫るのに仕度をして貰うお母様も女中も帰らない。お嬢さまのしょげて[#「しょげて」に傍点]いる様子を見て、御主人は堪まりかね、男の手でも出来ないことはあるまいと、お嬢さまに外出の仕度をしてあげようとされているのでした。「標本《サンプル》なども見てやってみましたが、白粉《おしろい》は石膏《せっこう》や漆喰《しっく》いと違いましてね、手におえません」。白粉だらけになった身体を拭きはたきながら御主人はつくづくそう言われます。見るとお化粧の見本に、古い婦人雑誌の化粧欄などが拡げてありました。そしてこの御主人の職業は、建築彫刻家でありました。 私は、もう笑えなくなりました。不断、無精な気難かしやでとおっている御主人が、真赭《まっか》な顔になるまで気を入れてお嬢さまのために母親の代りをしてあげようとしておられるのです。私はひそかに眼の奥を熱くしました。 そのうち奥さまが帰り、仕度もずんずん済んで小さいお嬢さまは無事にお茶の会へ出かけられましたが、その後で、奥さまは御主人に向って、「あなたにも、そんなこまかい気持ちがあるんですかね」と、不思議な顔をして訊ねられます。すると御主人は、もう平常のむっつり[#「むっつり」に傍点]やに返り、黙って笑いながらのそのそと仕事部屋へ入って行かれました。 硬中の柔、柔中の硬、などと言って、ただ一片の偏った硬なり柔なりでは、大生命(宇宙の万物が運行して行く力)の性徳を完全に映したものではありません。生命の一つの特色がさし当って目下の場合は硬であっても、実はその中にいつでも柔の用意がある。この自由円通を備えていて、はじめて自分は大生命に繋がる生命の一部なのです。そしてその生命の裏に用意されている他の部分が、時と事情により、われ知らず表面へ覗き出て来ます。[#ここから2字下げ]ほろ苦き中に味あり蕗《ふき》の薹《とう》[#ここで字下げ終わり] この句は父性愛の譬えとして好適の句だと思います。[#改ページ]

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