自分と他人

[#2字下げ]第二八課 自分と他人[#「第二八課 自分と他人」は大見出し]

[#7字下げ]一[#「一」は中見出し]

 自分には自分の特長があり、他人には他人の特長がある。自分の特長は他人とくらべてどういうところにあるか、それを自覚し見定めることの確実さ、不確実さによってその人の一生には無駄がなく、随って有意義に一生を使い得ると思います。 しかし、何が自分の天稟に備わっているのか、何が他人にくらべて自分の特長であるか、それは、なかなかたやすく自覚し得るものではありません。ともすれば、他人のした事他人の獲得した良果を見て、盲目的に自分もまた、それと同じような良果を獲得しようと欲求します。そして、思慮分別もなくあせり[#「あせり」に傍点]ます。 一面からいえば「勉強が天才を作る」という諺さえありますから、勉強さえすれば他人のした事はなんでも自分に出来ないわけはないはずです。しかし、それは一般の人々の人生の方向を極める時の役には立たないと思います。勉強して天才と同じ効果を獲得したというのは、その人の隠れたところに勉強したためにその修業の成功を致させる性質が潜んでいたのかもしれません。そういうことは往々にして有りがちなのですから、しかし、そういう幸福に当らなかった人はどうでしょうか。眼のたちの悪い人が刺繍で成功しようとしたり、足の短い人がマラソンの選手を志したりする無謀は避けなくてはならないでしょう。 幼年時代から好きな道があり、それに添って歩んで行くことがその人の成功であったりというような人は別として、多くの人はある時期において「さて自分は何者になったらよいか、何業が自分の性質に適するであろうか」を冥想しなければならぬ時期に行き当るでしょう。そういう時、人々はどうしたら宜かろうか、ある人は目上の人に相談に行き、ある人は学校の師の許へ出掛け、友達や両親、兄弟などとも懇ろに謀るでしょう。それらも宜いかも知れません。しかし、結局の掛るところは自分自身の覚悟するところ、決断するところにあるでしょう。いくら他より観察して貰うにしても「この畑地には比較的野菜を蒔いた方が適するだろう」くらいのところまでしか助言を得られないでしょう。進んで野菜のなかの何種類が適するかというところまでいい当てては貰えないでしょう。またそれより進んで自分以外のものの選定に自分の天分の見わけ方や、自分の天性が欲する生涯の選択を任すのは、自分に本当に忠実なものとはいえません。結局が自分です、自分に真に依拠すべきです。 さて、私は今、人々を自分にしっかり依拠するように勧め勧めてここまで筆を運んで来ました。ところで人々は「では自己とは何ぞや」と改めて私に聴かれはしますまいか。されば「自己とは何ぞや」。自己とは、まずこの我が肉体によって差し当り象徴され、かりに形づくられています。しかしながら、今一だんと自問自答を突きつめて「では本当の自己とはどこか体の一部分にでも潜んでいるのか」「手に聴いてみよ、足に聴いてみよ、鼻に、口に、耳に、背に、膝に」「どこにも答えなし」「では残った頭と胸と腹に聴け」「腹は落ち付き、胸は騒ぎ、頭は重きのみ」。 ついに見出し得ない自己の代りにそこへ大きな虚無がくち[#「くち」に傍点]を開けた。しかし、力を落してはいけない。暫時その寂漠に堪える人には忽然と湧く一念があって、その虚無のくち[#「くち」に傍点]をふさいでくれるでしょう。この一念は自己の片割れである。この一念をまず捉えよ。そしてそれに合する外界の念を呼ぶべし――つまり南無と唱えて仏への祈願をこめるのである。この時唱える「南無」(「南無阿弥陀仏」を現代語にいい換えれば「光明と叡知よ、今、我に来れ」)は、この時に適した行進曲ともいい換えられます。ここの仏をいい換えれば、本当にこの自分を形作り、この世に出した宇宙の根本生命の当体だというのであります。 自分の内部に起った懸命に自己を尋ねる一念と、その一念が呼んだ外部の念が祈願に依って合するところに真の自己は生れる。その自己がその刹那において直覚したものこそ、真に自己の声、自己を証明する声、真の自己が自己に呼び掛ける声、教える声――しっかりその声を聴取なさい。雑念の蔭にその声を逃してはなりません。

— posted by id at 10:05 am  

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